オリンピックを通じて、子どもたちが目にするものとは?

オリンピックも終わり、パラリンピック真っただ中ですね。

国際的な大会ということもあって、今まで耳にしたことの無いような国々の名前に驚かれた瞬間があったと思います。

個人的には、「ギニア共和国」と「赤道ギニア共和国」ですね。

ギニアという国名を聞いたことがありましたが、

こういった楽しさがあるのもオリンピックの良いとことですね。

ピクトグラムとは?

さて、話題は変わりまして開会式の話へ移ります。

オリンピックの開会式で、「動くピクトグラム」をご覧になりましたでしょうか。

パントマイムで世界を舞台に活躍されている「GABEZ MASAさん 、が~まるちょば HIRO-PONさん、GABEZ hitoshiさん」の3人の演技です。

(注:NHKのインタビュー記事より、写真をお借りしております。)

およそ50の競技を、パントマイムで表現されたそうです。間違えないように何度も練習されたのでしょう。さすがプロフェッショナルですね!

世の中はピクトグラムであふれている?

そもそも「ピクトグラム」とは、絵文字のことで、開催国の現地語の理解ができる・できないに関わらず、見て分かるデザインのことを言います。

身近な例を挙げますと、お手洗いの男女マークですね。

(東京都江東区HPよりお借りしております。)

こうした表現は「ユニバーサルデザイン」として世界的に活用されており、私たちの生活や社会の中にもたくさん取り入れられています。

(バンダイさまよりお借りしております。)

こちらの例は、視覚に不自由のある方用のユニバーサルデザインですね。触れて分かるこのデザインは、とても親切ですね。

多くの人が利用できる、SDGsと共通の価値観

民族や文化、慣習、性別、国籍、年齢などの違いに関係なく、出来るだけおおくの人が利用できる製品や建物を形作っていくことをユニバーサルデザインの定義としているそうです。

非常口のピクトグラムは、日本人の方が作ったことで有名ですね。

このピクトグラム(絵文字)という考え方は、1980年代に、アメリカ人のロナルド・メイスさん(彼自身も、車いすを利用する障がい者)という人が、考案したそうです。

あらゆる人が豊かに”暮らし続けること”ができる社会を目指す、SDGsと共通する価値観を持つとも言え、40年前といえば、まだまだそれほど社会が寛容でなかった時代から、新しいものが生まれたのですね。

ないものを生み出す力

先程のロナルド・メイスさんは、必要に駆られ、人々が豊かで幸せに暮らせることを願ってこのようなデザインを考えるに至ったわけです。

(マナラボさまよりお借りしております。)

もともとデザインを仕事とされていたそうですが、世の中にないものを「生み出す力」が、「人を思いやる気持ち」から生まれたことは素敵なことですね。

「ひらめく力」と「考える力」

東北大学加齢医学研究所の瀧靖之教授によると、「考える力」というのは誰にでも備わった力であり、”ただ考えるだけ”であれば、訓練しなくともできるものであると述べています。しかしながら、「物事を自分で判断し、自分で学んでいく力」は、訓練を重ねていくことでようやく獲得できる力だそうです。

現代では新聞や本以外にも、SNS・テレビ・インターネットなどの媒体が溢れています。自分自身にとって有益な情報を取捨選択し、そこから学びを深めていくことが求められます。もちろん情報の中には、ニセの情報もあり、きちんと自分で考えて「正しく判断する力」を身につけたいですね。

そこで、「正しい判断」の土台となるのは、「考える力」であることは、言うまでもありません。

そこで、先程のユニバーサルデザインのように、世の中にないものを「ひらめく力」を養う際に、必要となるのは「好奇心」、つまり「知りたいと思う気持ち」ではないでしょうか。

今回のオリンピックやパラリンピックを通じて、改めてこの地球には様々な人たちがいて、様々な国々の人たちで成り立っているんだと感じた方も多いと思います。

子どもたちも、自由に発想して、先述のロナルドさんのように、

「社会の役に立ちたい!」

「デザインを通じて世の中に変化をもたらすような人になりたい」

「実際にピクトグラムを作って、世の中に広めていこう」

と、かたちは違えど

実際に行動に起こしてくれる子どもたちが、1人でも多く増えるといいなと感じました。

余談ですが…

オリンピックを見て感じたことと言えば、学生時代にしていた剣道と柔道です。

剣道は中学3年間+道場α年、柔道は高校3年間していました。剣道につきましては、姉もしていた影響もあり、自分も中学に入ったらやるんだろうな…くらいの気持ちで始めました。

すると、ものの見事に剣道にハマってしまい、友達も通っていた同じ道場に通うようになりました。しかし、そこでとんでもないものを目にしたのです。

中学校でやっていた時とは全く違うレベルの人たちがゴロゴロいました(そりゃそうですよね)。

身長差がある小学生には面は奪われなかったものの、コテを何度奪われたことか…(プライドもズタボロです。)。

大人の方とも、ありがたく練習を付けてもらった日、無駄のない「剣さばき」にはまるで雷に打たれたかのような衝撃を受けました。

「道」を極めた人たちとは、こういう人たちのことをいうのだな、と尊敬のまなざしを送るのでした。

技をきめられたときは、まさに足が床にくっついたような状態で、動こうと思っても身体がいうことを聞いてくれず、文字通り呆然と「立ち尽くす」ということがありました。

時は経ち、高校に入り別の「道」に出会いました。柔道は、今でもやっていて本当によかったなと思う場面が多いです。

身長は、今とほぼ変わらない170㎝の私が、その頃は体重50㎏なかったので、同級生や先生からも、毎度練習相手となり、技を掛けられ、投げられを繰り返す日々。軽いので気持ちよく技がきまるので重宝がられました。(笑)

おかげでどこにぶつけても痛いですけど、痛みに関しては、かなり鈍感な人間になりました。

そんなある日、高校時代に自転車に乗っていたところ、私の不注意で大きな車に撥ねられ、かなりのスピードでカーブを曲がってきた車に撥ね飛ばされる事故がありました。

しかし、柔道の咄嗟の「受け身」のおかげで、自転車は壊れましたが、ケガもなく今もこうして生きております(笑)

何事も続けていれば、その時には意味が分からなくても、後々になって

理解できることの多さを「大人」になって分かるようになりました。

子どもたちが、勉強について言う時、「こんなん絶対大人になってから使わへんし」と痛烈なツッコミをもらうことがあります。

確かにそうかもしれません。しかし月並みな言い方かもしれませんが、「いつか役に立つ時がくるよ」と言ってあげたいですね。

今は意味があるか分からないことを、忍耐強く継続することの意味は、ずっと先の未来できっと「幸せに豊かに生きていくうえでの大きな活力になる」と信じています。

ロナルドさんだって、「誰か便利なものあったら教えて~、誰か考えてくれ~」という性格の人だったら何も新しいものを生み出す活力もなかったかもしれません。

きっと障がいを乗り越えていく過程で得た、数えきれない忍耐や苦労が土台となり、人を思う気持ちがあったからこそ、デザインを通じて世の人たちに「便利」をもたらしたに違いありません。

熱くなりましたので、今回はこの辺で・・・。

最近のお知らせ

モバイルバージョンを終了